奄美を愛した孤高の日本画家田中一村の作品をラベルに使用。
マイルドで黒糖焼酎の旨さを極めた逸品です。
本物の旨さを水割り、湯割り、オンザロックで。
容量:720ml アルコール度数:25度町田酒造株式会社 奄美黒糖焼酎「里の曙」は、口当たりが良く女性にも親しまれる酒として、奄美黒糖焼酎の長い歴史に新たな時代を画しました。
芳醇な香りとまろやかな味わい、すっきりした酔い心地は愛飲家を魅了し、発売以来高い評価を頂戴して参りました。
創業以来、善意の人びととの不思議なつながり、巡り会わせにより、最高位のご指導を仰ぎ、優れた技術者を招き、常に酒質の安定、向上のために研鑽を重ねて参りました。
これからも、謙虚にかつ誠実に努力をいたしたいと考えています。
先人たちが、苦難の中で守り育んできた文化でもある奄美黒糖焼酎にさらに磨きをかけ、真心を込めてお客様にお届けして参りたいと思います。
また、そのことを通して、地域社会に貢献する企業でありたいと願っているところであります。
黒糖焼酎の歴史 江戸時代に薩摩藩の名越佐源太(ナゴヤサゲンタ)という役人が島流し(現在の小宿農協支所前)にあい、「南島雑話」という書物を残していますが、その中に「焼酎製法の事」として焼酎の造り方が書かれています。
名越佐源太は焼酎という言葉を使っていますが、奄美の言葉で焼酎という方言は無く、酒のことを「セー」、蒸溜機の事を「タレ」、酒造り全般 を「セータレ」と呼んでいました。
南島雑話の原文の中で、「桑の実、椎の実、さとう何にても、なりものにて造る。
米を以て造る焼酎も色々有り」と書かれてあり、少なくとも江戸時代以前から黒糖焼酎は存在していたと考えられます。
奄美は1266年から1608年の340年間琉球王朝支配下にありましたが、文明未開化で王朝支配も徹底し得ない状況にあり、取り扱いも温情であったと言われていますから、この時代は黒糖焼酎に限らず、全てが自由に放任されていたのではないかと思われます。
しかし、これに反し1609年奄美が薩摩藩支配下に組み入れられたとたん状況は一変したようです。
当時の薩摩藩の公式文書によると、奄美は道の島と呼ばれ、明貿易との海上の道路程度として利用されていたわけですが、間もなく薩摩藩の財政をまかなう為の砂糖政策がとられ「砂糖地獄(黒糖地獄)」と言われる収奪体制が始まったのです。
余談ですが、薩摩藩は奄美から集めた黒糖を大阪商人に売り、軍資金を得、薩摩藩の基礎を造ったと言われています。
その頃に貴重な黒糖を原料として焼酎造りなど考えもつかない事と考えられます。
しかし、明治後期以降の焼酎造りについては、文献によっても明らかですが、あくまでも自家用の酒であった訳ですけれども、大正3年に販売目的の焼酎製造業者が誕生し、大正12年には33業者存在したようです。
その後日本は戦争を迎え、黒糖焼酎製造は一時途絶えました。
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黒糖焼酎の主原料である黒糖 黒糖はさとうきびから造る訳ですが、奄美の黒糖生産の始まりは、1605年大和村に住んでいた直川智(スナオカワチ)という人物が、琉球へ渡航中に台風に遭い中国の福建省に漂着し、5年後の1610年中国では国禁とされていたさとうきびを、行李の底を二重にして隠して持ち帰り、大和村で試作したところ、気候風土が適していたため、大島郡内に普及し黒糖の生産に至ったと言われています。
黒糖はさとうきびを搾った汁を、水分をとばすため長時間釜で煮詰め、石灰を入れます。
昔は石灰がなかったので、代わりに枝サンゴを細かく砕いて砂状にして使っていたようです。
石灰を入れると固まるので、型に入れて整形し黒糖が出来上がります。
100kgのさとうきびから約10kgの黒糖が出来上がります。
洗米、浸漬、蒸しの工程を経て、蒸し上がった米を冷却し種麹を混ぜて、米麹を造ります。
水と酵母に米麹を加え、一次もろみ(酒母)を育成します。
溶解した黒糖を2度に分けて加えていきますので、それぞれ二次仕込み、三次仕込みと呼びます。
もろみに溶解した黒糖を冷却して加えると、酵母は糖分を消化し、アルコールを生成します。
酵母という微生物のまさに神秘の技です。
糖分を2度に分けて与える事により、酵母はストレスを感じることなく活発に活動します。
酵母は三次仕込みの糖分を消化し、アルコールを生成し終わると、活動を停止します。
このもろみを蒸留器で蒸留し、奄美黒糖焼酎が精製されるのです。
精製された奄美黒糖焼酎は、冷却・ろ過の工程を経て、ゆっくりと熟成のときを過ごします。
熟成を終えた奄美黒糖焼酎は、瓶詰め・検査の工程へ進みます。
検査工程を終えた「里の曙」は、キャップをしラベルを貼って完成します。
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ショップ | 酒宝庫 MASHIMO |
税込価格 | 1,375円 |